隣に認知症のおばあさんが住んでいる。
とはいっても、数年前までは回覧板を届けてもらったり、りんごをもらったりして交流があり、その時はまったく違和感もなかった。
徘徊するようになってしまい、薬を服用するようになったのはつい最近のことのようだ。
そのおばあさん、この間とても久しぶりにマンションの廊下で会った。
「すみません、○階に行きたいんですけど」
と話しかけられたが、言われた階は、あたしたちが今いる階だった。
それを伝えると、「エレベータに勝手に連れて行かれた」んだという。
もちろん、そんなことが起こるわけがない。
「誰かに何かやられた」と受動態でモノを言ってしまうことはよくあることだ。
が、あたしはその認知症のおばあさんがその物言いをしたことで、少し苦々しい気持ちになった。
理論の飛躍かも知れないが、若いうちから「誰かに何かやられた」という言い回しばかりしていると、自分で変えられる現状も変えることが出来なくなるのではないか?
そして、歳を取ってからこんな風に、認知症になりやすくなるんじゃないか・・・?という考えに至ったのだ。
私のせいじゃない
私の担当じゃない
よく聞くセリフだ。
会社員時代、なるべくこのセリフは言わないようにしてきたが、セリフとして言っていないだけで、心のどこかで思ってしまっていないだろうか?
おばあさんは自分の部屋がどこかも分からないらしく、何故かウチの玄関の前に立てかけてあったビニール傘に、部屋の鍵をさそうとする。
なぜ傘がドアに見えてしまったのか・・・。
数年前まで普通に話せていた隣人が、認知症でこんな風に変わってしまう現実が信じられなかった。
結局、あたしはおばあさんを隣の部屋の前まで連れていく。
そしておばあさんから鍵を受け取り、ドアを開けてそのドアを手で押さえ、きちんと中に入ってもらうまで見届けた。
その後あたしは自分の部屋へ戻った訳だが、ふと、「自分が今までできない」と思っていたことを積極的にやろうと思った。
とはいえ、大したことではない。
最近、A4の紙を半分に切ってメモ用紙にすることがあったのだが、その時に使ったカッターの刃がずいぶんほころびていて、うまく切れなかったことがあった。
カッターの刃は、ペンチで挟んで「ボキッ」と折ると、もともと刃についている折り目からキレイに折れて、新しい切れ味を発揮してくれる。
ただ、ペンチが家の工具箱の中に入っていて、取り出すのが億劫だった。
というのも、「工具箱は夫が使うもの」だと、無意識にあたしの中で決めてしまっていたからだ。
無意識に決めていたことすら、今回のことがきっかけで気が付いたくらいだ。
あたしは工具箱に触ったことすらなかった。
「私の担当じゃない」
という例のセリフが頭に浮かんだ。
このセリフを口にしていないだけで、態度には出てしまっていたのだ。
というわけで、あたしは将来認知症を予防するため、意味があるのかどうかは分からないが、初めて夫がいない時に工具箱を取り出し、ペンチを使ってカッターの刃を折り、新しい切れ味にする作業を自力でやった。
人の振り見て我が振り直せ。
もちろん、隣人の認知症の原因が何かは分からない。
ただの偏見かもしれない。
だけど、今までやってこなかったことを積極的にやってみるのは、確実に良い影響ではあるだろう、脳トレ的に。
とはいえ、認知症の隣人について考えると気分が暗くなる。
同情なのか恐怖なのかは分からない。
後日、マンションの管理人さんとも隣人についてお話したが、「ご近所だし、ご家族が気分を害さない程度にサポートしてあげられるといいですね」という結論になった。
こういうことの積み重ねが、未来を明るくするのかもね。